▼書籍のご案内-後書き

[症例から学ぶ]中医針灸治療

あとがき

 私たちは,しばしば症例の紹介や報告を見たり聞いたりするが,たいていはある疾病や病証の説明をより具体的に示すための症例紹介であることが多い。だが,本書は徹頭徹尾,症例である。冒頭の「出版にあたって」の中に,「症例研究というのは,間接的な臨床実践として,学習者が他人の診療経験をくみ取るのに役立つだけでなく,さらに重要なことは,学習者の臨床における弁証思考能力を培えるということである」と記されているが,本書はその意図を十二分に具現しているといえる。
 私たちが目にする症例の中には,脈象,舌象,その他の検査結果が,どのような思考経路をたどってその診断(弁証)にいたったのかが必ずしも明確でないことがしばしばあるように思う。私が本書の一番の特徴だと思うのは,その思考経路が明確で,読み手の思考が中断されないという点である。それは,各症例に付けられてある「考察」の内容がまさしく必要かつ十分で,非常にていねいであるからだ。どうしてそのような診断(弁証)が行われたのか,なぜそのような治療を行ったのかの説明はもとより,一般的な解説,またときには古典を引用して病因病機を述べた後に,その症例の具体的状況を一般論から演繹して説明しており,なるほどそうかと,うなずきながら読むことができる。
 症例報告が,報告する人のためではなく,学習する人のためにあるのだ,という当たり前のことが,これほどしっかり守られているということは,学習するものにとって,たいへんうれしいことである。
 また,いま必要な症例を,この中から見つけて参考にするという使い方はもちろんだが,本書は,「考察」の部分の充実ゆえに,通読に値する。本書の考察部分は,中医理論そのものであり,それが臨床実践と呼応しているために,用語のイメージを明確にすることができる。
 針の操作について,きめこまかい説明があるのも本書の特徴といえる。症状の変化に対応した操作方法の調整,あるいは操作の過程での患者への対応なども興味深く,おおいに参考になる。病歴が長く,治療が長期にわたる患者,あるいは精神的原因が大きい患者などに対する対応の仕方も参考になることが多い。
 痺病に用いられている敷き灸治療などは,今日の日本ではそのまま用いることは難しそうだが,これを参考にしてもう少し狭い範囲で簡便な方法を考えて行うこともできるのではないかとも思える。痔病の項で用いられる火針治療もなかなかそのままでは用いにくいようだが,これも参考になる。軽症のものに大胆に試してみることも可能ではないだろうか。この症例に啓発されて,針灸の外科領域での応用が今後研究されていく可能性もあるのではないだろうか。
 脱病の項のペニシリンショックが古代の「尸厥」の証候に類似している,というのも興味深い。『史記』の扁鵲伝に「尸厥」の症例が出てくるが,古代の話かと思っていると,意外にも現代でも同じような病症がありうるということだ。ペニシリンに限らず,医療事故や屋外での事故などで,このような場面に遭遇することもありうる。日本ではたいていは病院での処置になるが,とっさのときにこのような経験の知識が役に立つこともあるかもしれない。
 納得したり,感心したり,驚いたりしながらのけっこう楽しい翻訳作業ではあったが,訳語の特定にはいつものことながら苦労することも多かった。調べがつかないものについては,渡邊賢一先生に助けていただいた。ここに記して感謝します。

名越 礼子
2005年7月